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暇人の暇人による暇人のためのつぶやき

思い立ったことをただただつぶやきます

どうやら厨二病とやらにかかってしまったようだ

 ※昨夜更新しようとしたら途中で寝てしまったのでこの時間に更新

 

 ふだんなら繁華街でアルコールにまみれているこの時間。だが今日はなんだかそんな気分にもなれず、おとなしく直帰。しかし独り身の筆者としては、家に帰っても特にやることはなく、ただ何となくテレビを眺めているだけ。ただ、筆者個人の意見として、金曜日夜のテレビ番組ほど暇なものはない。すると、テレビそっちのけで、ふと考え事が始まる。仕事のことにはじまり、周囲の人間のこと、学生時代のこと、将来のことなどなど。

 そのようにだらだらと考え事に耽っていると、ふと一つの疑問が浮かんでくる。

「俺って何のために生きているんだろう」

 

 念のため言っておくが、筆者はいい歳をした大人である。一応社会にも出ている。それなのに、まさかこんな思春期真っ盛りな子供が考えるような議題が浮かんでくるとは。題名の通り、どうやら厨二病とやらにかかってしまったようだ。

 しかしそうはいっても、いくら考えてもその答えが見つからないのである。例えば、おそらく一般的に、何のために生きるのか?という問いを問いかけたところ、ざっくりとこの3つに分かれるだろう。

 

1 自分の幸せのため

2 自分以外の人の幸せのため

3 死後の幸せのため

 

 とりあえず番号は飛ぶが、3については、深く考えるといろいろと宗教的な話になりそうなので、省略。筆者の考えとしては、「死後の世界はない」ということを前提とする。

 次に1。自分の幸せとは、偉くなりたい、大金持ちになりたい、自分の夢をかなえたい、とにかく自由気ままに暮らしたい!などなど。10人いれば10通りの答えがあるだろう。しかし、もし仮に、一生遊んで暮らしていけるほどの財産を所有して、全世界の人から敬われて、すべてが自分の思うとおりに生きられたとしても、死んでしまったらすべてが終わり。どんなに死後に世界中全ての人が敬い続けてくれていたとしても、敬っている人の気持ちは晴れるかもしれないが、自分は死んでいるので何も得はない。

 次に2。自分以外の人を幸せにするために生きる。家族や友人などの身近な人を幸せにしたいという人。江頭2:50の様に多くの人を笑わせることで幸せにしたいという人。恵まれない人たちを幸せにしたいという人などなど。どれも素晴らしい生き方だと思います。ただただやはり、厨二病にかかった今日の筆者からしたら、結局は死んでしまったらおしまい。

、、、、と書こうとしたが、この文を書いている途中に思った。自分以外の人の幸せのために生きることって、実は非常に「生きる意味」のあることなのではないか?

 例えば、とある人(下図では一番真ん中の人)の働きかけにより、とある4人(下図では真ん中の人の周りの赤の円に触れている人)を幸せにしたとする。人の行動は、自分に一番影響を与えてくれた人を模倣する傾向があるという理論に当てはめると、その幸せにされた人たちもまた誰かの幸せのための働きかけを一生懸命する。すると今度はまたその幸せにされた人は誰かを幸せにするように働きかける。仮に一人が4人ずつを幸せにしていくとすると、、、

4×4×4×4×4×......

 

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 仮に初めの人が死んだとしても、その人の働きかけにより、その人が直接働きかけた人のみならず、会うことのなかった誰かにまで好影響を与え続けている結果となり、結論として、「生きている意味があった」と言えるのではないか。

 つまり、この厨二的思想の終着点としては、「誰かの幸せ作ってあげれば、生きている意味がある」ということに落ち着く。ただそれは何も、「家族のために一生懸命働く」「恵まれない人のために人生を捧げる」などといったことのみをさすわけではない。「自分が豊かになりたいがために一生懸命働く」ということだって、結果として「自分以外の幸せのために生きること」になる。なぜなら、結局お金は、「自分以外の誰かのためになること」を行わなくては稼げない。もちろん、例外として犯罪があるが。この「誰かのためになった質と量」と「稼いだお金の額」はほぼ比例しているといってもよいのではないか。

 例えば、飲食店アルバイトと従業員100人規模の会社経営者の場合。飲食店アルバイトの場合は、役に立つ対象が、「来店する客」と「雇われている店」のみである。しかも、「来店する客」に対しては、「料理を提供する」という薄い役割のみである。一方、経営者の場合、まずは「仕事を与えて生活をさせている従業員」、仮にその会社が自らの商品を持っているメーカーなら、その商品を使用することで幸せになる「商品のエンドユーザー」、「エンドユーザーが商品を使うことで好影響を与えられた周りの人」商品流通のために中間業者を挟むなら、その商品を売ることで利益を出している「中間業者及びその社員」などなど、、、経営者自らの働きかけにより、莫大な数の人の「幸せ」を作り出している。もちろん、ここでは偽造やら不良品などのネガティブな観点は除くこととする。このように、簡単に挙げただけでも、「飲食店のアルバイト」と「会社経営者」とでは「誰かの役に立っている質と量」には雲泥の差がある。この「誰かの役に立った数の質と量の差」が、「飲食店アルバイトと経営者の報酬の差」となっているのである。飲食店のアルバイトと会社経営者では報酬の差に雲泥の差があるのは言うまでもない。

 つまりこの理論でいくと、冒頭で否定した生き方、「自分の幸せのために生きる」ということも、結果として「誰かの幸せのために生きる」ことにつながるので、「生きる意味がある」と言えるのではないか。

 いろいろと話が横道にそれてわかりにくくなってしまったが、結論を言うと、今回のテーマ、「生きる意味」とは、仮に自分が死んでも残るような、「誰かの幸せを作ること」。その手段としては、「家族のため」「友人のため」「恵まれない人のため」などといった、意識的な働きかけもよし、「自分の幸せのため」などといった、一見自分本位なように見えるが、結果的には「周りの人の幸せ」につながる間接的な働きかけもよし。

 つまり、犯罪などで他人の権利を侵害せずに、一生懸命生きるだけで、十分に生きている意味がある

 

 ということが言えるのではないか。ただここでまた一つの疑問が。

周りの人の幸せだのなんだの言っているが、そもそも「幸せって何?」

 それに付け加えて、この理論でいくと、結局はどんなに頑張ったところで結局自分の利益は死んだら終わりで、結果として人のためだけに骨を折らなくてはならないことになり、なんだかむなしくなるようにも感じる。

 うーむ、むずかしい。このお題はまた今度厨二病にかかった時にしようか。(笑)

 それでは疲れたのでこのへんで。