「アルハラ」は大きく取り上げられるのになぜ「カラハラ」は取り上げられない?
筆者は生粋の音痴である。声の音域が狭い、音程が取れない、リズムも取れな
い、、、決して歌うことが嫌いというわけではないが、とても人様に聞かせられる様な
力量はない。
カラオケ好きの人はたいてい、
「歌のうまい下手なんか関係なく、楽しく歌えばいいじゃん!!」
などと言う。しかしそれは、「最低限以上の歌唱力」を持ってるからこそ当てはまるこ
とであり、「最低限以下の歌唱力」しか持っていない筆者には当てはまらない。
ただ、たちの悪いことに、カラオケ好きの人間は、たいてい歌わない人間に歌え歌え
とせがんでくる。本人達に悪気が無い事はわかる。自分が歌うことが好きだから、その
楽しさをわからせたいのだろう。
その点は筆者もある一定の理解はある。というのも筆者は、生粋の酒好きで、飲み会
があればいつも引っ切り無しに飲み続けている。酒を飲んで騒いでいると、普段のスト
レスがそのときだけは忘れられる。その素晴らしさを酒が苦手な人にもわかって欲し
く、度々酒を勧めてしまうものである。
しかし、この両者には、社会的に大きな差がある。前者は、強者(歌を強要する人)
が認められ、弱者(歌を拒否する人)が非難される。一方、後者は、強者(酒を強要す
る人)が非難され、弱者(酒を拒否する人)が認められる。
たしかに、酒は体質的なものもあり、少し飲んだだけで人体に多大なる悪影響が出る
人もいる為、酒を強要する人が非難され、拒否する人が認められるのは正しいことであ
る。しかし、なぜカラオケは弱者が非難されるのか?歌が下手な人だって、決して歌い
たくないわけではない。しかし、歌が下手な人が人前で歌うということは、自分の一番
恥ずかしい部分を大勢の前でさらけ出すことである。人前で全裸になることと同じくら
い恥ずかしいことである。また、仲の良い連中の前で歌うのならばうまい具合にいじら
れ、おいしい思いをする場合もあるが、あまり知らない人の中で歌った場合、その場が
微妙な空気になり、その後は一切触れられなくなるということも多々ある。服を脱がす
だけ脱がしといて、そのことには一切触れずに放置されている状態である。
ここで、「カラハラ」の実態を「アルハラ」と比較して簡単にまとめてみた。
ここ最近、「アルハラ」という言葉が広まったおかげで、酒の弱者は社会的に守られ
る傾向にある。一方「カラハラ」に関しては、弱者は一切守られず、むしろ弱者は強者
の機嫌を損ねないようにしなければいけないという傾向がある。その差は一体何なのか?
・ 身体的影響の差
アルコールは、弱い人に飲ませると、すぐに人体に悪影響が出てしまう。そのため、
少しでも強要しようとするものがいれば、その人は大きな非難を受ける。また仮に、弱
者が場の空気を読んで少しでも酒を飲もうものなら、周りはその頑張りを称え、ものす
ごい賞賛を受ける。
一方、歌は、どんなに歌が下手でも、表向きは人体に悪影響は出ない為、弱者が守ら
れることは無い。むしろ歌わないでいると、強者から莫大な歌の強要を迫られ、断ろう
ものなら激しい非難の嵐にある。しかし、その非難の嵐に負け、ヘタクソな歌を披露し
ようものなら、そのあまりものヘタクソさにさっきまで意気揚々としていた強者達は一
瞬にして携帯をいじり始め、場が微妙な空気に、、、その後、何も無かったかのごと
く、強者達の歌自慢大会が再開され、弱者に二曲目が回ってくることはなくなるのであ
る。
確かに、「カラハラ」の被害者は「アルハラ」の被害者と違い、身体的被害は無い。
しかし実際は、精神的に莫大なダメージを負っていて、その傷は想像以上に深い。カラ
オケの場では、そのような状況から逃げるすべは無く、カラオケに一歩でも踏み入れよ
うものなら、その拷問を受けなくてはならないのである。
・ 強者と弱者の数の差
アルコールは、強者と弱者の割合は大体2:8くらいの割合で弱者の方が多いと思わ
れる。その為、仮に強者が弱者にアルコールを強要したところで、弱者が結束して強者
を非難することができる。
一方、歌の強者と弱者の割合は、大体9:1くらいの割合で強者の数が多い。そのた
め、「カラオケはみんな大好きである」という考えが「世間一般の考え」となり、弱者
は守られるどころかむしろ「一部の変わった人間」となってしまうのである。
「カラハラ」が一般的な「ハラスメント」の仲間入りをする日はくるか?
それでは、この「カラハラ」が日本の代表的な「ハラスメント」の仲間入りをする日
は来るのだろうか?筆者の予想では、おそらく「来ない」と思われる。
今、日本には、「ハラスメントブーム」といっても過言ではないくらいあらゆる「ハ
ラスメント」が存在している。「セクハラ」に始まり、「アルハラ」「パワハラ」「マ
タハラ」「モラハラ」などなど、、、
しかし、それらが「ハラスメント」として立派に生きているのは、その被害を受けて
いる「弱者の数」が被害を与えている「強者の数」と同等かそれを上回る数が存在して
いるからである。「弱者」の中の勇気ある人が声を挙げたのをきっかけに共感者が続
出。一緒に戦う人が増えれば、それに応じて大きな活動に移すことができる。そうなれ
ば、新しいもののメディアが取り上げるようになり、そのことが悪いことだと社会に認
知されるようになる。
一方、「カラハラ」の弱者は、そもそも絶対数が少なすぎる。筆者もおそらく今まで
何百人以上とカラオケを共にしたが、筆者と同レベルの歌唱力の人間は、両手で数えら
れるほどしかいない。つまり、仮に筆者のような「弱者」が「カラハラ反対」と声を上
げたところで、社会的に今日考えられず、「お前が歌が下手なのがいけない」と頭ごな
しに一蹴されるだけで終わってしまうだろう。
つまり、「カラハラ弱者」は、ただひたすら「カラオケ強者」からの仕打ちに堪えて
いかなければならないのである。
「カラハラ」は「パワハラ」に該当する?
ただ、そんな「カラハラ弱者」にも、一種の光明が。なんと、「カラハラ」は「パワハラ」と認定される可能性があるらしい。
弁護士によると、取引先の接待は飲食など他の方法を通じて行うことが可能であり、カラオケ嫌いの社員を連れて行き、歌うことを無理強いすることに合理性はないため、「パワハラと認定されるおそれがある」ということだ。
一つでもその事例が出れば、一発逆転で、「カラハラ」という言葉も社会的に認められ始めてくることだろう。
筆者の場合、仕事上客先との会食が多い為、どうしてもカラオケを避けられない場合
がある。しかも、客先とカラオケに行く=スナックであり、本当の見ず知らずの人間の
前でこの歌声を晒さなくてはならない、「真の地獄」である。この地獄から抜け出す為
にも、早く「カラハラ」という言葉が社会に認知されてほしい。
カラオケ好きの「カラオケ強者」の人たちへのメッセージ
最後に、ごく少数派の「カラオケ弱者」から「カラオケ強者」達へメッセージ。
・二回歌うことを要求して断ったら、その人を「カラオケ弱者」と判断して、歌うことを要求することはやめること!!
カラオケ強者の中には、自分がカラオケ好きなため、歌わない人がいたら、「遠慮して歌えないのではないか?」と考え、歌うことを要求する人がいる。確かに、中には本当は歌いたいけど、まだあまり馴染みの無いグループ内だったり、普段あまり前に出る無い性格だったりして、歌いたいけど歌えないという人もいるだろう。しかし、そのような人達はたいてい、1回、もしくは2回歌うことを求めれば、喜んで歌いだすのである。逆に、2回歌うことを求めて、かたくなに拒否している人は、本当に歌いたくない、「カラオケ弱者」である。そのような人たちにしつこく歌を強要することは、その人を非常に傷つける、「アルハラ行為」である。
・「カラオケ弱者」の立場に立って考えること!!
「カラオケ強者」の人達も、カラオケ以外の面で、あらゆるコンプレックスを持って
いることだろう。運動神経が悪い、勉強ができない、仕事ができない、異性とうまく話
せない、体型、などなど、、、、
もし仮に、それらのコンプレックスを、大勢の前で強要され、軽蔑の目で見られたらどうだろうか?
運動のできない人が、体育大生に無理やりスノボに連れて行かれ、いきなり上級者コ
ースを滑らされる。当然、うまく滑れるはずも無く、何度も転んでいると、助けるどこ
ろか軽蔑の目で見られる。
体型に非常にコンプレックスのある人が、モデル級の体型の人たちに無理やり海に連
れて行かれ、水着姿になったところ、モデル達から非常に軽蔑の目で見られる。
これらと同様に、「カラオケ強者」は、「カラオケ弱者」に無理やりその人のコンプ
レックスを公に晒し出し、それを軽蔑の目で眺め、多大なる精神的ダメージを与えてい
るのである。
「
カラオケ強者」は一回、もし仮に自分のコンプレックスが公に晒され、軽蔑の目を向
けられた場合、どのような気持ちになるか考えてもらいたい。それが、世間的には少数
派である「カラオケ弱者」からの「カラオケ強者」に対する一番の要望である。